北区 「田端」 文士や芸術家たちが集った田端のまち散歩
静かな住宅地が広がる田端界隈。駅の西側は起伏に富み、由緒ある神社仏閣が点在する。台地から見える美しい景色を文士や芸術家たちも眺めたことだろう。
0JR京浜東北線・山手線「田端駅」下車
東京都北区東田端一丁目
南改札口を出る。
「不動坂」へ
改札を出て直進、右側にある階段を上がる。
1「不動坂」階段坂はアニメの聖地
東京都北区東田端一丁目
この階段が不動坂だ。かつて坂付近に不動明王の石像があったことが坂名の由来である。鉄道工事等のため石像は移転し、現在は田端3丁目にある田端不動尊に祀られている。田端駅南口からこの坂道周辺は、近年公開されたアニメ映画で主人公が住んでいる町として描かれ、聖地巡礼するファンも多い。階段を上がった左角に坂名の標柱がある。
「ライオンヒルズ田端不動坂」へ
階段を上がって通りに出たら、横断歩道を渡ってから左に進む。
しばらく進み、右側にあるマンション「ライオンヒルズ田端不動坂」を過ぎたら右折する。
しばらく進み、右側にあるマンション「ライオンヒルズ田端不動坂」を過ぎたら右折する。
「幽霊坂」へ
Y字路を右に進む。
次のY字路を左に進むと、下りの坂道になる。
次のY字路を左に進むと、下りの坂道になる。
2「幽霊坂」石塀の続く坂道
東京都北区田端一丁目
幽霊坂と名が付く坂道は都内に10か所以上あるが、ここもその一つだ。残念ながら坂名の標柱などはない。幽霊坂は寺や墓地が近くにあることが多いが、ここも与楽寺がすぐ横にある。以前は樹木が覆いかぶさって薄暗く、雰囲気たっぷりの坂道だったという。
「与楽寺」へ
坂道を下り、さらに直進する。
突き当りを右に曲がる。
すぐ右側に寺の入り口がある。
突き当りを右に曲がる。
すぐ右側に寺の入り口がある。
3「与楽寺」石碑や石仏が並ぶ古刹
東京都北区田端一丁目
平安時代に弘法大師によって創建された(諸説あり)と伝わる真言宗の寺。本尊の地蔵菩薩は別名「賊除地蔵」という。かつて寺に盗賊が押し入ったとき、僧侶の姿になった地蔵菩薩が盗賊を追い返したという伝説があるのだ。また、本堂の左にある阿弥陀堂には行基作と伝わる阿弥陀如来像が安置されている。この阿弥陀如来は「江戸六阿弥陀詣」の4番目として多くの参拝者が訪れた。駐車場の横にトイレあり。
「与楽寺坂上」へ
与楽寺を出て、右に進む。
少し先右側に「与楽寺坂説明板」が立っている。その先の坂道(与楽寺坂)を上がる。
坂道を上がりきる手前の十字路を左折して進む。
少し先右側に「与楽寺坂説明板」が立っている。その先の坂道(与楽寺坂)を上がる。
坂道を上がりきる手前の十字路を左折して進む。
「芥川龍之介旧居跡」へ
奥まで進み、道なりに左に曲がると右側に説明板と工事中の土地がある。
4「芥川龍之介旧居跡」記念館建設中
東京都北区田端一丁目
作家の芥川龍之介が大正3年から亡くなる昭和2年まで、13年間暮らした家があった場所だ。「羅生門」「鼻」「河童」などの作品はこの地で書かれた。北区は旧居跡の土地の一部を購入し、芥川龍之介記念館(仮称)を令和9(2027)年にオープンする予定である。
「童橋」へ
そのままさらに直進する。
切通し道の崖上に出たら右に進む。
すぐ先に橋が架かっている。
切通し道の崖上に出たら右に進む。
すぐ先に橋が架かっている。
5「童(わらべ)橋」切通しを渡る歩行者専用橋
東京都北区田端一丁目
ここはもともと台地がつながっていたが、昭和8年に切通しの大通りがつくられた。分断された台地をつなぐために架けられた橋が「童橋」だ。橋名は子供たちの通学路になることから付けられたという。
「田端八幡神社裏」へ
橋を渡ったら左に進み、坂を下る。
坂の途中、右側二本目の横道に入る。
坂の途中、右側二本目の横道に入る。
「田端八幡神社」へ
道なりに進むと神社の裏に出るので、駐車場の横から境内に入る。
6「田端八幡神社」祭りと神輿渡御は2年に1回
東京都北区田端二丁目
創建は文治5(1189)年、奥州征伐から凱旋する源頼朝が鶴岡八幡宮から勧請したと伝わる。田端の鎮守のひとつとして地域の人々の信仰を集めてきた神社だ。隔年で8月中旬に例大祭が行われ、町会の神輿が巡行する(神輿渡御)。参道脇にはその神輿を納めている蔵がずらりと並ぶ。境内社として他にも富士浅間社・三峰社、稲荷神社が祀られている。
「赤紙仁王像」へ
本殿正面の階段(男坂)を下りる。すぐ横の女坂脇には稲荷社・三峰社・富士浅間社が見える。
参道を直進し、一の鳥居をくぐり道路に出る。
右に進むと、お堂の前に赤い紙を全身に貼られた一対の仁王像がある。
参道を直進し、一の鳥居をくぐり道路に出る。
右に進むと、お堂の前に赤い紙を全身に貼られた一対の仁王像がある。
7「赤紙仁王」全身に赤い紙
東京都北区田端二丁目
東覚寺門前の護摩堂前に立つ石造金剛力士立像は通称「赤紙仁王」とよばれ、赤い紙が貼りついている。病気の患部と同じところに赤い紙を貼って、病気の身代わりをお願いするという風習だ。病気平癒したときは、お礼に草鞋を奉納する習わしという。仁王像は寛永18(1641)年に隣の田端八幡神社に奉納されたものだが、明治の神仏分離によって別当寺だった東覚寺に移された。赤紙祈願はそれ以降に始まったらしい。祈願申し込みは東覚寺で受け付けている。
「のらくろマンホール・林芙美子旧居跡付近説明板」へ
赤紙仁王前を過ぎ、大通りを直進する。
右側2本目の横道の角にカラーのマンホールがあり、壁際には説明板がある。
右側2本目の横道の角にカラーのマンホールがあり、壁際には説明板がある。
aのらくろマンホール・林芙美子旧居跡付近説明板
東京都北区田端三丁目
区内の7か所に設置しているデザインマンホール(カラーマンホール蓋)の一つ。田河水泡は昭和4(1929)年から昭和7(1931)年まで田端に居住し、漫画「のらくろ」を発表した。小説家:林芙美子は大正11年に上京し、働きながら詩や童話の創作をした。田端にはわずかな期間、当時お付き合いのあった男性と同棲していたという。その家はここではなく、東覚寺裏手辺りにあったそうだ。
「板谷波山旧居跡地」へ
マンホール前の横断歩道で大通りを渡る。
渡ったら右に進む。
一本目の横道を過ぎた先に説明板がある。
渡ったら右に進む。
一本目の横道を過ぎた先に説明板がある。
b板谷波山旧居跡地
東京都北区田端三丁目
陶芸家(文化勲章受章):板谷波山は明治36(1903)年この場所に住居を構え、陶芸窯をひらいた。戦時中に疎開した後もここに戻り、終生住み続けたという。
「ポプラ倶楽部跡とポプラ坂」へ
板谷波山旧居跡地の前を過ぎ、直進する。
次の角に保育園があり、左に少し入った所に説明板がある。
次の角に保育園があり、左に少し入った所に説明板がある。
8「ポプラ倶楽部跡とポプラ坂」ポプラの木とテニスコート
東京都北区田端三丁目
田端保育園のあるこの場所には、かつてテニスコートがあった。明治44(1911)年頃に洋画家の小杉放庵や倉田白羊たちがつくったテニスサークル「ポプラ倶楽部」のコートだ。敷地の垣根には会員の故郷・小豆島から送らせたポプラの苗を植えた。これが俱楽部の名前の由来となった。やがて、テニスコート横の坂道もポプラ坂と呼ばれるようになったという。
「北区立田端公園」へ
ポプラ坂は下らずに、元の大通りに戻って左に進む。
左側一本目の横道を曲がる。
奥に進むと区立公園がある。
左側一本目の横道を曲がる。
奥に進むと区立公園がある。
c北区立田端公園
東京都北区田端三丁目
昭和43年4月に開園した区立公園。台地と低地の境の土地を利用した公園になっている。ベンチがあり休憩に利用できる。トイレあり。
「上田端八幡神社」へ
公園の中を通り抜け、反対側の階段出入り口から外に出る。
左に進み、一つ目の丁字路を右折する。
横断歩道のある十字路をこえて直進すると、すぐ右に神社がある。
左に進み、一つ目の丁字路を右折する。
横断歩道のある十字路をこえて直進すると、すぐ右に神社がある。
9「上田端八幡神社」祭りと神輿渡御は毎年実施
東京都北区田端四丁目
由緒等は先ほど訪れた田端八幡神社と同じであることから、元々一つだった八幡神社が上田端村と下田端村で別々に祀られるようになったと考えられている。拝殿の裏に回ると、一段高くなった場所に本殿があり、本殿と拝殿がつながっている様子がよく見える。境内には白髭神社と稲荷神社も祀られている。例大祭は毎年8月の中旬に実施されている。
「大龍寺」へ
神社を出て右に進む。
すぐ隣に寺がある。
すぐ隣に寺がある。
10「大龍寺」正岡子規・板谷波山が眠る
東京都北区田端四丁目
創建は慶長年間(1596~1615)。当初は浄仙寺といったが、天明年間(1781~1789)に大龍寺に改称したと伝わる。本堂左にある墓域入口から入ると、すぐ前方に板谷波山の墓所がある。正岡子規の墓所は、入口から左に進んだ壁際、笹竹が茂った辺りにある。すぐ横には子規が生前に自分で書いたという絵入りの文が墓誌としてたてられている。
「第二中里踏切」へ
大龍寺を出て右に進む。
区立田端中学校を過ぎ、十字路を越えてさらに直進する。
斜めに突き当る道を左に進む。
JR湘南新宿ライン・山手貨物線の線路を越える中里橋のすぐ先に踏切がある。
区立田端中学校を過ぎ、十字路を越えてさらに直進する。
斜めに突き当る道を左に進む。
JR湘南新宿ライン・山手貨物線の線路を越える中里橋のすぐ先に踏切がある。
11「第二中里踏切」山手線唯一の踏切
東京都北区中里一丁目
山手線に残された最後の踏切。平成17(2005)年に池袋・目白間にあった長崎道踏切が廃止され、唯一の踏切になった。遮断時間が長く「開かずの踏切」としても有名だ。現在、すぐ近くに線路を渡る道路建設計画があり、この踏切も令和11(2029)年以降に廃止される予定。
「中里一丁目付近」へ
踏切は渡らずに元の道を戻る。
中里橋前を左折し、線路沿いの道(歩道内)を進む。
歩道を進んだ先、右側にある横断歩道を渡る。
渡って左に進み、すぐ右にある横道に入る。
中里橋前を左折し、線路沿いの道(歩道内)を進む。
歩道を進んだ先、右側にある横断歩道を渡る。
渡って左に進み、すぐ右にある横道に入る。
「田端四丁目の階段」へ
渡って左に進み、すぐ右にある横道に入る。
突き当りにある階段を上がり、道に出たら右に進む。
突き当りにある階段を上がり、道に出たら右に進む。
「田端五丁目付近」へ
突き当りを左に曲がり、大通りに出たらすぐに右折して進む。
次の十字路で対角線に行くように横断歩道を渡り、さらに直進する。
次の十字路で対角線に行くように横断歩道を渡り、さらに直進する。
「室生犀星旧居跡地」へ
しばらく先、鋭角に左に曲がる細道に入る。
少し先右側、民家の前に説明板が立っている。
少し先右側、民家の前に説明板が立っている。
d室生犀星旧居跡地
東京都北区田端五丁目
詩人・小説家:室生犀星は大正5(1916)年に田端に移り住んだが、田端の中で数回転居している。そのなかで、ここが一番長く住んだ場所だそうだ。また、ここより右側の道一本隔てた場所(今通過してきた)には、小説家:菊池寛の住まいもあった。
「サトウハチロー・福士幸次郎旧居跡地」へ
説明板を過ぎ、右側二本目の横道に入り直進する。
道なりに左に曲がって進む。
通りに出たところのすぐ右に説明板が立っている。
道なりに左に曲がって進む。
通りに出たところのすぐ右に説明板が立っている。
eサトウハチロー・福士幸次郎旧居跡地
東京都北区田端五丁目
大正10(1921)年頃、当時ここには詩人:福士幸次郎の家があった。福士が若いころ師事していた人物が文人:佐藤紅緑(こうろく)であり、その長男が詩人:サトウハチローである。ハチローは素行不良のため父から勘当されてしまう。まだ20歳前のハチローを引き取って面倒をみていた場所がここだった。
「田端文士村記念館」へ
説明板を過ぎ、通りを直進する。
次の信号で左折する。(横断歩道を渡り対角線側から曲がる)
坂道(江戸坂)を道なりに下り、右にカーブすると記念館の入り口がある。
次の信号で左折する。(横断歩道を渡り対角線側から曲がる)
坂道(江戸坂)を道なりに下り、右にカーブすると記念館の入り口がある。
12「田端文士村記念館」今日の散歩のおさらい
東京都北区田端六丁目
明治から昭和戦前にかけて田端に居を構えた芸術家・文士たちに関する資料を収蔵・展示している施設だ。常設展示スペースでは、貴重な原稿や書簡、作品などを見ることができる。地図や模型・ジオラマを見て、今日の散策を思い出すのも楽しい。月曜日:休館。(祝日が土曜日や月曜日の時は、火曜日や水曜日が代休になる場合があるので注意)
「JR田端駅」へ
記念館を出て元の道に戻り、右に進む。
信号を渡って左に進むと田端駅だ。
信号を渡って左に進むと田端駅だ。
13JR山手線・京浜東北線「田端駅」
東京都北区東田端一丁目
北改札口