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「市ヶ谷・神楽坂」 昔からの町名を辿る散歩道

2023-07-12
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「市ヶ谷・神楽坂」 昔からの町名を辿る散歩道

寄り道散歩 (2023/06/26 08:32)
新宿区は町名保存住民運動の結果、江戸・明治からの町名が多く残っていることで知られる。町名にかかわる歴史を知れば、いつもの散歩がより楽しくなるはずだ。

0ここからスタート
JR中央・総武線「市ヶ谷駅」下車→改札を出て左に進むとすぐ①である。

 都営新宿線「市ヶ谷駅」下車→市ヶ谷橋方面改札を出て出口1へ向かう。地上に出ると①がある。

 東京メトロ南北線「市ヶ谷駅」下車→JR中央・総武線方向に進む。通路途中に「江戸歴史散歩コーナー」展示あり。九段方面改札を出る。出口1~4・A1~4方向に進む。出口1へ向かう。地上に出ると①がある。

東京メトロ有楽町線「市ヶ谷駅」下車→JR中央・総武線方向に進む。
九段方面改札1~4・A1~4方面に進む。改札を出て、出口1~4・A1~4方向に進む。出口1へ向かう。地上に出ると①がある。
寄り道散歩 (2023/06/23 15:19)
1「市ヶ谷駅交差点」今は無き城門の跡 
かつてここには赤坂門や四谷門と同じような城門がおかれていた。門は明治4(1871)年に撤去され、遺構もほとんど残っていない。交番の裏の公園に「市ヶ谷門跡」の説明板があり、石垣に使われていた石がわずかに残されている。公園にトイレあり。

寄り道散歩 (2023/06/23 15:21)
道案内 市ヶ谷橋を渡り、左側に神社の入り口がある。
市ヶ谷橋を渡る
見どころ1→右に見える橋は市ヶ谷水管橋だ。昭和6(1931)年に架けられたもので、中に配水管が通っている。

見どころ2→水管橋の下には釣り堀(市ヶ谷フィッシュセンター)がある。平日11:00~、土日祝日9:00~営業している。休みは元旦のみ。釣り堀エリア内に入るには料金が必要。
市ヶ谷橋を渡る
右に見える橋は市ヶ谷水管橋だ
昭和6(1931)年に架けられたもので、中に配水管が通っている
水管橋の下には釣り堀(市ヶ谷フィッシュセンター)がある。
市ヶ谷橋を渡り、左側に神社の入り口がある。
市ヶ谷橋を渡り、信号(市ヶ谷見附)で大通りを越えたら左に進む。
左側に神社の入り口がある。
市ヶ谷橋を渡り、信号(市ヶ谷見附)で大通りを越えたら左に進む。
左側に神社の入り口がある。
2「市谷亀岡(かめがおか)八幡宮」ここは市谷八幡町(いちがやはちまんちょう)
市谷八幡町は江戸時代から存続する町名であり、亀岡八幡宮が由来である。
太田道灌が文明11(1479)年に鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を勧請して創建され、縁起の良い鶴・亀から命名したといわれている。初めは市ヶ谷門付近に建てられたが、寛永13(1636)年の外堀工事完成後に現在地に移された。
寄り道散歩 (2023/06/23 15:28)
3「茶ノ木稲荷神社」ここも市谷八幡町 石段を上る途中左側にもうひとつの神社がある。
昔からここには稲荷神社があり、神の使いである白狐が住んでいたそうだ。その白狐がお茶の木の枝で目を突いて怪我をしたためお茶を忌む風習が生じ、お茶を断ってお参りすると眼病が治るという評判が広まった。ご利益を求めて多くの人が参拝したという。じつは、茶ノ木稲荷は亀岡八幡宮より古くからここにあった。移転してきた亀岡八幡宮の方が有名になってしまったのだ。
寄り道散歩 (2023/06/23 15:30)
道案内 亀岡八幡宮本殿前を右に進み、裏側に行く。
亀岡八幡宮本殿前を右に進み、裏側に行く。
通路の突き当りを右折、さらに先を右折すると階段がある。
階段を下りて左折する。曲がり角の石垣に町名・坂名を刻した石が置かれている。
突き当りまで進むと坂道に出る。
曲がり角の石垣に町名・坂名を刻した石が置かれている
4「左内(さない)坂」ここは市谷左内町(いちがやさないちょう)
市谷左内町は江戸時代に市谷佐内坂町として成立した。明治44(1911)年の町名変更で市谷左内町になった。
左内坂は外堀通りから高台上の市谷左内町を結ぶ坂道である。坂名・町名ともに、この辺り一帯の名主であった島田左内の名前に由来している。
寄り道散歩 (2023/06/23 15:53)
道案内 左折し、左内坂を上る。 右側にカレー店(LALLA)がある。
左折し、左内坂を上る。 右側にカレー店(LALLA)がある。
左折し、左内坂を上る。
右側にカレー店(LALLA)がある。その1軒先の脇に狭い階段通路があるので下りる。
突き当りを右折して、さらに下ると長延寺保育園に突き当たる。
折り返して進み、右側一本目を右折する。
都営長延寺アパートの敷地を通り抜けると、坂の上に出る。
右側にカレー店(LALLA)がある
その1軒先の脇に狭い階段通路があるので下りる。
突き当りを右折して、さらに下ると長延寺保育園に突き当たる。
5「長延寺坂」ここは市谷長延寺町(いちがやちょうえんじまち)
市谷長延寺町は江戸時代に市谷長延寺谷町として成立した。明治44(1911)年の町名変更で市谷長延寺町になった。
長延寺坂は都営アパートの入り口から下っていく坂道である。坂名・町名ともに、かつてこの場所にあった万昌山長延寺に由来している。長延寺は明治42(1909)年に杉並区和田1丁目に移転した。
寄り道散歩 (2023/06/23 15:59)
道案内 長延寺坂を下り、通りに出たら右折して進む。
長延寺坂を下り、通りに出たら右折して進む。
長延寺坂を下り、通りに出たら右折して進む。
大通り(外堀通り)に出たら左折する。すぐ左にDPNプラザがある。この辺りは市谷田町だ。
長延寺坂を下り、通りに出たら右折して進む。
6「DPNプラザ」ここは市谷田町(いちがやたまち)
市谷田町は江戸時代から存続する町名だ。1丁目~3丁目まであり、外濠沿いに横に長く続いている。かつて外堀沿いにあった田圃を周辺の台地から削った土で埋めて町家を開いたことから名づけられた。
DNPプラザは、DNP大日本印刷が運営するオープンイノベーション施設だ。紙や印刷に関する展示やカフェなどがある。入場無料、10:00~20:00、日曜休み、トイレ利用可。
寄り道散歩 (2023/06/26 08:51)
道案内 DNPプラザを出て、元の道を進む。
DNPプラザを出て、元の道を進む。
DNPプラザを出て、元の道を進む。
すぐ一本目を左折する。
突き当りが変則十字路になっている。
角に浄瑠璃坂の標柱が立っているので、坂を上っていくと市谷砂土原町だ。
突き当りが変則十字路になっている。
角に浄瑠璃坂の標柱が立っているので、坂を上っていくと市谷砂土原町だ。
7「浄瑠璃坂」ここは市谷砂土原町(いちがやさどはらちょう)
市谷砂土原町は明治5(1872)年に成立した町名だ。ここにあった本多佐渡守正信の別邸跡地が「佐渡原」とよばれていたことと、市谷田町を造成する際にここの土(砂土)を取って利用したことから「砂土原」といわれていたことにちなむ。浄瑠璃坂の由来については、人形浄瑠璃の芝居小屋があったとか、浄瑠璃の脚本構成が1段目~5・6段目と進むのに似て坂道が段のように波打っていたから、など諸説ある。また、この坂付近は下野(しもつけ)宇都宮藩奥平家の内紛に端を発する「浄瑠璃坂の仇討」の事件現場となったことでも知られている。
寄り道散歩 (2023/06/26 08:59)
道案内 階段が芥(ごみ)坂である
浄瑠璃坂を上り、突き当りまで進む。 左折すると、石垣と階段があるのでそちらに進む。
浄瑠璃坂を上り、突き当りまで進む。
左折すると、石垣と階段があるのでそちらに進む。
浄瑠璃坂を上り、突き当りまで進む。
階段が芥(ごみ)坂である
階段が芥(ごみ)坂である。昔、谷地にゴミ捨て場があったことが名前の由来だ。昔はそのまま谷地に下りていたが、大日本印刷の工場ができたため先の部分は長い歩道橋になった。

歩道橋を進む。橋の下一帯は大日本印刷の整備事業のため、建物はすべて取り壊されている。
階段が芥(ごみ)坂である。昔、谷地にゴミ捨て場があったことが名前の由来だ
昔はそのまま谷地に下りていたが、大日本印刷の工場ができたため先の部分は長い歩道橋になった。
歩道橋を進む。橋の下一帯は大日本印刷の整備事業のため、建物はすべて取り壊されている。
8「芥(ごみ)坂歩道橋」右下一帯が市谷鷹匠町(いちがやたかじょうまち)
市谷鷹匠町は明治4(1871)年に成立した。江戸時代に鷹匠組屋敷があったことが町名の由来である。芥坂歩道橋は反対側の降り口が二股の階段になっている。左側の階段には「ごみざかほどうきょう」のプレートが付いている。このプレートが無いと、こちら側から芥坂を見つけることは難しいだろう。今回は右側の階段(プレートなしの方)を下りる。
寄り道散歩 (2023/06/26 09:08)
道案内 歩道橋を右側に降り、直進する。 信号のある十字路を右折(道路を渡って)して進む。
歩道橋を右側に降り、直進する。 信号のある十字路を右折(道路を渡って)して進む。
歩道橋を右側に降り、直進する。
信号のある十字路を右折(道路を渡って)して進む。
ここから左側が市谷加賀町で、DNPのマークのある高いビルは大日本印刷のビルだ。
さらに直進し、道路の上に架かる歩道橋をくぐる。
その先、左側にレトロな建物がある。
信号のある十字路を右折(道路を渡って)して進む。
9「DNP大日本印刷」ここは市谷加賀町(いちがやかがちょう)「市谷の杜・本と活字館」
市谷加賀町は明治5(1872)年に成立した。かつて加賀金沢藩主夫人の屋敷があったためこの辺りが加賀屋敷跡とよばれていたことが由来である。DNP大日本印刷は明治9(1876)年に銀座で創業された「秀英舎」が前身だ。明治19(1886)年ここに工場を建設し、大正12(1923)年には本社も移した。印刷・出版はもとより、写真加工や包装材開発など多方面に事業展開している。平成27(2015)年、DNP市谷加賀町ビルが竣工した。
「市谷の杜・本と活字館」は大日本印刷の旧社屋を改修してオープンさせた資料館だ。記録写真などをもとに、大正15(1926)年の竣工当時の姿に復元した。印刷に関する技術や資料の展示のほかに、展覧会なども行われている。ただ見学するにはネットからの事前の予約が必要である。レトロな外観を見るだけでも楽しい。
寄り道散歩 (2023/06/26 09:17)
道案内 「本と活字館」前の歩道橋を渡る。(横に上り階段あり)
「本と活字館」前の歩道橋を渡る。(横に上り階段あり)
「本と活字館」前の歩道橋を渡る。(横に上り階段あり)
渡ったら、左に下り階段があるので降りる。
大通り(中根坂)に出たら右に進む。
すぐ右に入る道があるので曲がる。
公園を過ぎ、さらに進むと上り坂「鼠(ねずみ)坂」がある。
「本と活字館」前の歩道橋を渡る。
歩道橋は遊歩道に続いている
左に下り階段があるので降りる。
公園を過ぎ、さらに進むと上り坂「鼠(ねずみ)坂」がある。
10「鼠(ねずみ)坂」坂の左側は納戸町(なんどまち)
納戸町は牛込納戸町として江戸時代に成立した。明治44(1911)年に牛込の冠称がはずされている。納戸役同心の組屋敷があったことが由来である。納戸役とは、将軍の衣服や調度の管理、将軍と諸侯・旗本の間でやり取りされる金銀や諸物の出納や管理を受け持つ役職だ。
鼠坂は、鼠が通るほど細く狭い坂だったからというのが由来だ。少し前までは本当に狭い坂だったが、道が拡幅されてかなり広がってしまった。
寄り道散歩 (2023/06/26 09:28)
道案内 鼠坂を道なりに右に曲がって進む。突き当り手前に浄瑠璃坂の仇討跡の説明板がある。
鼠坂を道なりに右に曲がって進む。突き当り手前に浄瑠璃坂の仇討跡の説明板がある。
鼠坂を道なりに右に曲がって進む。突き当り手前に浄瑠璃坂の仇討跡の説明板がある。
突き当りを左に曲がり、そのまま直進する。
突き当りを右に曲がり、一本目を左折すると「鰻坂」だ。
鰻坂は途中の信号を越えた先まで続いている。
鼠坂を道なりに右に曲がって進む。突き当り手前に浄瑠璃坂の仇討跡の説明板がある。
突き当りを右に曲がり、一本目を左折すると「鰻坂」だ。
11「鰻坂」左側一帯は払方町(はらいかたまち)
払方町は牛込払方町として江戸時代に成立した。明治44(1911)年に牛込の冠称がはずされている。払方御納戸同心の拝領地があったことが由来である。払方とは、将軍の金品の出納管理のうち、下賜金・下賜品を扱う役職である。
鰻坂は長い坂である。下ったあと途中から上りになって、最後にカギ型に少し曲がっている。この形が首を少し曲げて横たわっている鰻に似ていることから名前が付いた。
寄り道散歩 (2023/06/26 09:37)
道案内 鰻坂を最後まで進み、突き当りを左折する。
鰻坂を最後まで進み、突き当りを左折する。
鰻坂を最後まで進み、突き当りを左折する。
一本目を右折して直進する。
突き当りに和風塗壁で囲まれたお屋敷がある。少し左に屋敷の正門が見える。
鰻坂を最後まで進み、突き当りを左折する。
突き当りに和風塗壁で囲まれたお屋敷がある。少し左に屋敷の正門が見える。
12「最高裁判所長官公邸」ここは若宮町(町名解説は後述)
この屋敷は、富山県の海運業で財を成した馬場家東京邸として昭和3(1928)年に建てられたものだ。戦後、税金の物納として国が取得し、昭和22(1947)年から最高裁判所長官公邸として使われてきた。現在一部の取り壊しを含む工事が進んでいる。工事後は最高裁判所の迎賓施設と長官公邸にリニューアルされる予定である。
寄り道散歩 (2023/06/26 09:42)
13「逢坂(おうさか)」ここは市谷船河原町(いちがやふながわらまち)
市谷船河原町は江戸時代に成立し、現在まで続く町名であるが、町名の由来ははっきりしない。下の低地には川があり船が並べられていたからという説や、築土(つくど)神社の氏子との何らかの関係によるものではないかなど諸説ある。
逢坂には小野美作吾(おののみさご)と、さねかずらの悲恋の伝承がある。坂名の標柱には、「夢の中で、二人は再び出会えた」で解説が終わっているが、伝承は「夢で美作吾の死を知ったさねかずらは、坂下の池に身を投げた」という話になっている。
逢坂を下ると、左に神社がある。
寄り道散歩 (2023/06/26 09:44)
14「築土(つくど)神社」ここも市谷船河原町
この築土神社は、千代田区九段にある築土神社の飛地分社である。築土神社は何回か移転をしており、そのたびに神社の氏子たちも移ってきた。市谷船河原町にも氏子たちが居住していたが、神社が九段に移ったとき氏子たちはここに残った。そこでここに飛地分社を建て、氏子であることを示したものと思われる。
この築土神社の前には掘兼(ほりかね)の井がある。ちょっと井戸には見えないが、「この水は飲めません」と書いたシールが貼ってあるのが井戸だ。説明板はなぜか神社の正面に掲げられている。
寄り道散歩 (2023/06/26 09:51)
道案内 築土神社の前の狭い横道を上がっていくとアンスティチュ・フランセ東京がある。
築土神社の前の狭い横道を上がっていくとアンスティチュ・フランセ東京がある。
築土神社の前の狭い横道を上がっていくとアンスティチュ・フランセ東京がある。
築土神社の前の狭い横道を上がっていくとアンスティチュ・フランセ東京がある。
15「アンスティチュ・フランセ東京(旧東京日仏学院)」ここも市谷船河原町
昭和27(1952)年に開校したフランス語学校・文化センターである。建物の設計は坂倉準三、モダン・ムーブメントの建築として評価が高い。入り口の総合受付で許可を受ければ、建物の内部を見学することができる。月曜日休館。
土曜・日曜は、前庭の一角に移動販売形式のクレープカフェ「ル・ブルターニュ―」が開店している。ちょっと一休みにいかがでしょう。
寄り道散歩 (2023/06/26 09:55)
道案内 逢坂を下り、大通り(外堀通り)に出たら左折して進む。 一本目を左折すると、庾嶺(ゆれい)坂の上りになる。
逢坂を下り、大通り(外堀通り)に出たら左折して進む。 一本目を左折すると、庾嶺(ゆれい)坂の上りになる。
逢坂を下り、大通り(外堀通り)に出たら左折して進む。
一本目を左折すると、庾嶺(ゆれい)坂の上りになる。ここから先は若宮町になる。
16「庾嶺(ゆれい)坂」ここは若宮町(わかみやちょう)
若宮町は牛込若宮町として江戸時代に成立した。明治44(1911)年に牛込の冠称がはずされている。町内に若宮八幡神社が鎮座していることが由来である。
江戸初期この辺りが美しい梅林だったために、二代将軍秀忠が中国にある梅の名所にちなんで命名したと伝わる。緩やかにカーブしている様子や、石垣のある景色など趣のある坂だ。
庾嶺坂を上りさらに直進すると、右側に神楽坂若宮八幡神社がある。
寄り道散歩 (2023/06/26 09:59)
17「神楽坂若宮八幡神社」ここはもちろん若宮町
源頼朝が奥州合戦勝利の御礼として、文治5(1189)年に鎌倉の鶴岡八幡宮内の若宮八幡を勧請したと伝わる。江戸時代は牛込若宮八幡宮とよばれていた。もともと広い社地を有していたが、戦災で社殿を焼失する。その後、新たに社殿等を新築するが敷地は狭くなってしまった。
寄り道散歩 (2023/06/26 10:01)
道案内 熱海湯の右横に、細い通路があるので入る。 見どころポイント有り
若宮八幡の前の道を右に入る。
若宮八幡の前の道を右に入る。
道なりに左・右と曲がって進むと右手に若宮公園がある。(トイレは階段の下にある)
若宮公園と反対側の角に洋菓子店がある。
若宮八幡の前の道を右に入る。
道なりに左・右と曲がって進むと右手に若宮公園がある
トイレは階段の下にある)
「ル・コワンヴェール」を右に見て、路地の奥に向かって進む。
「ル・コワンヴェール」を右に見て、路地の奥に向かって進む。
突き当りを右に、次を左に曲がると階段があるので下りる。
正面に銭湯「熱海湯」がある。
「ル・コワンヴェール」を右に見て、路地の奥に向かって進む。
突き当りを右に、次を左に曲がると階段があるので下りる。
正面に銭湯「熱海湯」がある。
熱海湯の右横に、細い通路があるので入る。
熱海湯の右横に、細い通路があるので入る。
直進すると途中から階段になる。(通称:熱海湯階段)
突き当りを左・右と曲がって進むと神楽坂の大通りに出る。
左折し、大通りを進む。左に善国寺(毘沙門天)がある。
熱海湯の右横に、細い通路があるので入る。
直進すると途中から階段になる。(通称:熱海湯階段)
突き当りを左・右と曲がって進むと神楽坂の大通りに出る。
左折し、大通りを進む。左に善国寺(毘沙門天)がある。
aちょっと寄り道→「ル・コワンヴェール」
「ル・コワンヴェール」はフランス人パティシエ、パトリック・ルメルの店だ。ケーキ・パン・焼き菓子などを揃えている。
寄り道散歩 (2023/06/26 10:33)
18「善国寺・毘沙門天」消滅した牛込肴町(うしごめさかなまち)
現在ここは神楽坂五丁目であるが、昭和26(1951)年までは牛込肴町(魚屋があったから)と、牛込岩戸町(神話:天岩戸の前で神楽を舞ったから)という町名であった。岩戸町は現在も残っているが、肴町の方は廃止されてしまった。神楽坂の由来は諸説あるが、近隣の神社等で奏でる神楽の音が聞こえてきたからというのが有力である。
善国寺は安土桃山時代に日本橋馬喰町に創建され、その後麹町に移転、さらに寛政4(1792)年に現在地に移ってきた。本尊の毘沙門天木像は加藤清正の陣中守り本尊だったとの伝承がある。トイレあり
寄り道散歩 (2023/06/26 10:43)
道案内 善国寺を出て、神楽坂を先に進む。
善国寺を出て、神楽坂を先に進む。
善国寺を出て、神楽坂を先に進む。
左側一本目の道を入る。
地蔵坂という坂道を上る。右にカーブしている角に坂名の標柱がある。江戸時代この辺りは「藁店(わらだな)横町」とよばれ、藁を商う商人が住んでいたそうだ。
さらに進むと、左側に高照寺がある。
善国寺を出て、神楽坂を先に進む。
地蔵坂という坂道を上る。右にカーブしている角に坂名の標柱がある。江戸時代この辺りは「藁店(わらだな)横町」とよばれ、藁を商う商人が住んでいたそうだ。
さらに進むと、左側に高照寺がある。
19「光照寺・牛込城跡」ここは袋町(ふくろまち)
袋町は牛込袋町として江戸時代に成立した。明治44(1911)年に牛込の冠称がはずされている。地蔵坂を上がってきた道は行き止まりで袋小路になっていたことが町名の由来である。
光照寺は慶長8(1603)年に神田須田町に開かれた浄土宗の寺で、ここには正保2(1645)年に移ってきた。それ以前はここに牛込城があった。城主は中世に上野国で勢力を持っていた大胡(おおご)氏。大胡氏は本拠をこの地に移した後は牛込氏を名乗った。その後小田原北条氏の配下となり、北条氏が滅びた後は徳川氏に仕え牛込城は廃城になったという歴史がある。
寄り道散歩 (2023/06/26 10:47)
道案内 光照寺を出て、元の道を先に進む。
光照寺を出て、元の道を先に進む。
光照寺を出て、元の道を先に進む。
突き当りを右折し、緩やかにカーブしながら坂道を下る。



20ゴール 都営地下鉄大江戸線「牛込神楽坂駅」だ。
都営地下鉄大江戸線「牛込神楽坂駅」だ。

駅に入らず信号を右折して大通りを進み、次の信号(神楽坂上)も右折し、そのまま神楽坂商店街を抜ければ、JR中央・総武線「飯田橋駅」に出る。

また、信号(神楽坂上)を左折して進むと、東京メトロ東西線「神楽坂駅」がある。
寄り道散歩 (2023/06/26 10:54)

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寄り道散歩

狭い路地や不思議な地形が大好きで、時には地図やナビゲーションに頼らず表通りを外れた路地裏で迷子になるのも好きです。
どこに繋がっているのか分からないワクワク感がたまりません。



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